ウズベキスタンに行って本当に伝えたかったこと。

 

皆さんこんにちは。

渓です。

 

今年の2月にウズベキスタンに行ってきました。

 

そこに行って感じたこと、考えたことを伝えたくて動画を作ってみたんです。

 

ちょうどウズベキスタンの活動を報告できるイベントがあったので、それに向けて作りました。

  

僕としては満足いく出来栄えでした。

カッコいいオープニング、感動のエンディング、そして僕が伝えたかったことをミスチルの曲とともに。。。

 

こりゃあ良いものができた。報告会が楽しみだ。

 

本番。20人くらいの参加者。真っ暗な部屋、シーンとした雰囲気。

前にある巨大なスクリーンに僕の動画が流れました。

 

 【速報】衝撃事実。あんま伝わってなかった。

 

よし、これで自分の伝えたかったことは伝わった。満足。

 

3日後、その動画を見た後輩に、その動画で伝えたかった趣旨を伝えました。

 

すると衝撃的な発言が、、

 

後輩「あ、そういうことが伝えたかったんですね。」

俺「うん。  え?」

 

伝わったと思ったら、あんまり伝わっていなかったのです。

 

なので、この場を借りて、僕が本当に伝えたかったことを言います。

 

【僕が本当に言いたかったこと。】

 

ウズベキスタンで出会った女の子が言いました。

 

「私達はイスラム教だから、恋人ができても外で二人で歩いてはいけないの。日本人が羨ましい。」

 

びっくりしました。ほんとにびっくりしました。

 

この言葉の何に驚いたのか、皆さんは分かりますか?

 

僕が驚いたのは、

 

「日本人が羨ましい。」という言葉。

 

これ、すごいことを言っていないですか?

 

外国の文化を知らなかったら、そんなことすら思わなかったはずなんです。

 

外を知らなかったら、自分の文化・宗教に疑問を持たなかったはずなんです。

 

昔だったら、自分の環境は「あたりまえ」でしかなかったと思います。

 

国際化が進むこの時代。

外国の文化を知ってしまったことで、自分の文化、ましてや宗教に疑問を持ったのです。

 

イスラムの人は、イスラム教を崇高している。

日本人からしたら当たり前の事実です。

子供のころからそう教えられました。

 宗教に入っている人はその宗教を信仰しているものだと思っていました。

 

しかし、今回ウズベキスタンに行って分かったこと。

 

イスラム教の人がイスラム教に疑問を持っている。

 

自分の家系の宗教に、疑問を持つのは、外の影響から来るしかないと思うんです。

 

このままグローバル化が進めば、ウズベキスタンで出会った彼女のように、

自分がいる環境に対して「あれ?」と思う者が必ず出てくる。

 

そして、その者の中から自分が置かれている状況に対して、「我慢できない者」が出てくる。

 

「変えようとする者」が現れる。

 

歴史から見ても

「支配される者」は、長い歴史で見れば必ず「支配する者」に戦いを挑んでいる。

挑まなかったものはいない。

 

それは、人間の中に「自由」への欲望があるからです。

 

人間は「自由」を我慢することができない生き物なんです。

 

 

宗教はこれからどうなっていくのか。

文化はこれからどうなっていくのか。

 

もしその宗教が、文化が、自分にとって「制限するもの」となっているのなら、必ず「変えようとする者」が現れるのではないでしょうか。

 

国際化とは、互いの「よい」を共有していくこと。

そして、より多くの者が考える「よい」に、一緒に進んでいくこと。だと思うのです。

 

つまりそれはこう言えるのではないでしょうか。

 

このまま国際化が進めば、世界の文化・宗教は、「似たようなもの」になっていく。

 

 

 

【まとめ】

 

僕は無神論者です。

神を信仰するということが分かりません。

 

文化を継承するということもよく分かりません。

 

だからもしかしたら、このブログで書いたことは、とてもケタ違いなことを言っているのかもしれないです。

 

でも、これが今回のウズベキスタンに行って感じたことであり、

僕が動画で伝えたかったことです。

 

 

 

是非これを読んで感じたこと、皆さんの意見を聞かしてください!

 

 

以上です!

ありがとうございました!

 

ではまた!

 

 

(友達にこの文を見せたらいっぺんに書き過ぎだって言われました。伝えるって難しいですね!)