アユタヤの宿で考えた。

 

ソウタとタイにいます。

ゲストハウスのベッドのそばで哲学史の本を読んでた時です。

 

ソウタから言われた「なんで本に線を引くの?」発言から全てが始まりました。

 

ソウタの発言の意図は以下の通りです。

「本に線を引くということは、自分で大事なところ、大事じゃないところを決めている。本当は一文字一文字含めて著者が言いたいことなのに。

全ては渓の解釈、認識でその本を読んでいる。哲学者の名言は知っているが、その名言の背景は理解していない。そんなんじゃ、一生真実にはたどり着けない。」

 

 

 

なるほど。まあ確かに。と思いました。

となると、ん?待てよ?と思いました。

 

僕は、真実・善・本質に本気でたどり着こうとしていないということに気付きました。

(所詮、そんなものには一生たどり着けないのが人間ですが、それでもたどり着こうとするのが哲学者ですね。)

僕は、「自分のため」に。「自分が心地よくなるため」に、哲学をしていると気づきました。

 

所詮僕は、正しさ、真実、物事の本質を本気で知りたかったわけじゃなかったんです。

結局は、自分のために哲学をしてたのです。

楽しいから、哲学をしてたのです。

僕は、哲学を楽しんでいただけでした。

 

真実を追い求めるのに、「◯◯のため」という要素があったら、到底無理だと思います。なぜなら、探求において、「目的」が存在する限り、極めて現実的な目線でしか物事を考えられないからです。

 

哲学者は何も自分の心地よさのために真実を追い求めているわけじゃないので、ショックでした。

 

 

 

待てよ?

 

 

と思いました。

ワンチャン、全ての哲学者は「自分のため」に思考してたんじゃないか?と思いました。

だって、少しでも真実に気づけたら、少しでも何かわかったら、「心地よさ」が生まれるからです。

ルソーもデカルトパスカルも、全員、自分の心地よさのために探求してたのではないか。

彼らも僕たちと同じ人間。この世の人間な限り、「心地よさ、自分のため」という感情からは逃れられないと思います。

 

 

え?じゃあ哲学ってめっちゃ無駄な学問じゃん。って思いました。

「◯◯のため」が生まれる人間である限り、真実や正しいことなんてたどり着けないのに、それでもなお追い求める。

こんな無駄な学問、いる、、、?

 

 

その夜、絶望の淵に立たされました。

今までやってきたことは何だったんだろう。みんな心地よさのために色々考えてただけじゃん。。と。

ソウタのせいでこんな絶望してるのに彼は熟睡しておりました。それがソウタです。

 

朝起きた時、哲学に対してもはや絶望もなく、冷めてました。冷め冷めです。

上記の考えを起きたソウタに説明したら、「たしかに。」となりました。

 

 

逆に、「◯◯のためとなってしまう人間にとって、哲学は無駄だ」という、とてつもない発見をしたと思い。。

あと何年かしたら僕の言葉が偉人伝に載るのでは、、と本気で少し思いました。

 

 

さて、ソウタに線引きを指摘されたその哲学史の本の残りを読み始めました。

堂々と線を引きながら。

なぜなら所詮哲学は自分の心地よさのためにあると分かっちゃったので、自分が見たいように見ようと思ったからです。冷めてます。

 

 

カントの章がきました。

偶然なのか必然なのか、そのページには、まるっきり同じことが書いてありました。

 

以下、カント「純粋理性批判」より。

( )は僕の解釈です。あくまで、解釈です。

 

カントの重要な結論は、現実は人間にとって、それがそれ自体であるがままにではなく、ただ人間にとって彼の認識能力の特性に基づいて見えるようにしか現れないということである。

 

(人は物事を自分の見たいように見てしまう。騙し絵のように。目の前で起こったトラブルも、本の内容も、必ず自分の認識で見て、理解してしまう。)

 

これは、有限的存在者としての人間の宿命である。

ところで、形而上学的な諸々の試みは、人間の認識範囲を乗り越えようとする諸努力であることが明らかになる。そして究極的にはその点に挫折が根ざしているのだ。

 

(神・真実・正しさなどこの世界の普遍的な原理を理解するために、人間は、極めて主観的な認識を越えようと努力するが、究極的にそこには限界がある。)

 

人間は「天井にまで達するほどの塔」を築こう

と欲するが、「経験の平面における我々の営為にとってまさに十分の広さと高さの住居」にすることができるにすぎない。

 

(「天井にまで達するほどの塔」=真実、正しさ。「十分の広さと高さの住居」=人間が作れる限界・範囲。)

 

 

つまり、僕が昨日の夜考えていたことは、とっくの昔に、すでに考えられていたことだったのですね。

哲学者たちも、人間である限り、真実にはたどり着けないことは分かっていたのです。

しかし哲学者は、僕のように無駄だから諦めるなんて思わなかった。

 

「じゃあどうしたらいいか」を考えました。

思考し続けているのです。今日も。何処かの誰かが。

 

僕は哲学というものを理解していませんでした。この学問はとても怖ろしい。人間の探求心は怖ろしい。そう思いました。

 

 

カントの章の最後のページに書かれていた著者の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。僕の解釈は入れません。みなさんが見たいように見てください。

 

 

哲学することは、色々な答えを見つけてそれらをかかえて隠蔽することを意味しないからである。哲学するということはつねに新たに根本的な問いを提起することである。そこで、カントの形而上学的な諸問題の解決も、あらゆる時代に妥当することはありえない。人類をずっと襲ってきた思考の危機の中で、形而上学的な確実性は新たに疑問になったし、それは今日、かつて以上に疑わしくなっている。

しかし今日でもなお、カントの次の命題は妥当する。

「人間の精神が形而上学的な研究をいつか完全に放棄するだろうということは、まさに我々が、絶えず不純な空気を作り出すことがないようにするため、呼吸をいつか完全にやめてしまうことができないのと同じように、期待されることができない。」